疾患の変遷


~道徳的問題から疾患へ~

 酒の主成分はエタノールで、糖類が酸素の少ない環境で微生物により分解されるときに生じる。したがって、人類の誕生以前から自然界にはアルコールが存在していた。特に果物は、ぶどう糖や果糖を含み、かつ酵母菌が付いているため容易にアルコールになる。人類が初めて口にしたアルコールはそのようなものだった。遠い昔の人々はどうすればこの「よい気分にしてくれる液体」を作ることができるのか研究を重ねた。その結果、世界の文明の黎明期からビール、ワイン、穀物酒は存在していたようである。しかし、庶民にとっては、長い間、医薬品、祝祭の日にだけ楽しむ珍重品だった。なので、アルコール依存症は、一般的な疾患として認識されることはなかった。

 産業革命後、アルコールは大量生産が可能となり、日常的な嗜好品となった。それと共に、アルコールを乱用する人が集団発生するようになった。その最初は、イギリスにおける「ジン狂い」である。

 ジンは、中世イタリアで作られていた蒸溜酒のレシピをもとに、オランダの医師が独特な香りをもつジュニパー(ネズ松)の実と砂糖を加えてジネヴァという薬用酒を作った。それがあまりにおいしかったので、薬用を越えて飲まれるようになってしまったのだ。イギリスの上流階級へジンを持ち込んだのは、オランダ出身のイングランド王ウィリアム3世(1650~1702)だ。薬局でも売られるようになったが、買えたのは裕福な層だけだった。庶民にその味を伝えたのは、17世紀にボヘミアから勃発した「30年戦争」に送り込まれたイギリス水兵達だ。滋養強壮薬として配給された「オランダの勇気 – Dutch courage」なる酒(実はジン)に病み付きになって帰還してきた。

 ウィリアム3世は、トウモロコシや大麦などの余剰収穫物の有効利用と、穀物価格の安定にジン製造が好適(国民の人気取りという説もある)だとして、熱心にイギリスでの蒸溜を奨励した。さらに、酒造法を改訂し、誰でも自由に蒸留酒を酒造出来るようになった。その結果、ジンは大量生産されるようになり、ビールよりも安い酒となった

 その頃、イギリスでは、産業革命、第二次囲い込み運動にて土地を追われた農民が下級労働者となってスラムに吹き溜まり、1日18時間労働を行なっていた。労働の疲れを忘れるためには、ジンで酔うのが手っ取り早いことが知られると、あっという間に労働者の間に広まる。ロンドンではジンの「自動販売機」さえ発明された。歩道に面した居酒屋の壁にディスペンサーがついている。前足を差し出した黒猫の形だ。コインを入れ、飲み口の猫足の下で口を開けて待つと、中にいるバーテンがワンショットを流してくれるしくみだ。賃金をジンで払う雇用主も現れた。子供も飲み出した。飲むために働き、働いては飲む。

 急性アルコール中毒で死ぬ人、依存症となって、子供を育てられなくなり捨てる親、ジン欲しさに犯罪を繰り返す人などの問題が続出した。

 当時の人々は、飲酒問題は、依存症という病気によって起こるのではなく、下層階級の怠惰さ、道徳的退廃で考えていた。なので、対策はまず、啓発であり、そのためにホガースという画家が1750年に描いた「ジン横丁」と「ビール街」という2枚の銅版画が有名である。

ビール街
「ビール街」は、キチンとした身なりをした人達がビールを楽しむ様子が描かれた。

ジン横丁
「ジン横丁」は、今にも死にそうな骸骨のような男、酔いしれて煙草に手を伸ばした途端、子供を下に落としてしまう不注意な母親、赤ん坊にジンを与えている母親、料理用の串に死んだ赤ん坊を突き刺している泥酔したコックといった人物が描かれている。当時は、ジンに比べて、ビールは度数が低いので、安全だと思われていたため、この2枚の銅版画を、同時に人々に見せて、「ジンではなくビールを飲もう」と啓発したのである。もちろん、度数が低くても大量に飲めば、依存症になる危険は同じなので、医学的には間違った啓発である。しかし、依存症になるためにビールを飲むのは、ジンに比べて、費用が格段にかかるので、当時の貧乏な人にとってはハードルが高かった。なので、ジンの供給を制限する公衆衛生と政策としては正しい。実際、政府が1751年にジン制定法を施行し、ジンの供給を制限し、飲むならビールを勧めることで、「ジン狂い」の発生数は減っていった。このあたりの経緯は、川成洋・石原孝哉著『ロンドン歴史物語』(丸善ライブラリー)に詳しく書かれているので、興味のある方は読まれたい。蛇足だが、現在でも、「自分にとってビールは酒じゃない」と強弁する依存症者は大勢いる……。

 イギリスで起きたことは、アメリカでは、1776年の独立から100年間に起こった。18世紀後半に活躍した有名な医師であるベンジャミン・ラッシュは、1784年にアルコールの過度の乱用は身体的かつ心因的な健康に有害であると主張した。この主張が広範囲にわたって議論された結果、1789年にコネチカット・コミュニティのおよそ200人の農民により禁酒協会が設立されたのを皮切りに、各地で禁酒協会が設立された。イギリスでは、「ジン狂い」が蔓延しても、国全体を禁酒にする政策は行われなかったが、アメリカでは、キリスト教系の団体が禁酒運動を展開し、その後押しを受けて、「アメリカ国内において、アルコールの製造、販売と輸送を禁止する」という禁酒法が1919年に施行された。もちろん、酒好きの人達は、それで飲酒するのを諦めたりはしない。禁酒法の施行中、以下のようなことが起こった。

・アルコールの密造・密売が盛んになった。粗雑な製法で作られた酒を飲んで命を落とした人も少なくない。
・禁酒法は、アルコールの摂取そのものは禁止しておらず、アメリカ国外での飲酒は合法だったので、多くのアメリカ人がアルコール飲料を飲むために国境を越えるようになった。カナダ、メキシコ、カリブ海沿岸の酒造メーカーが繁栄した。
・1920年代になると、上記の国々から米国に不法に輸入されるようになり、それを牛耳ったギャング達が何百万ドルもの大金を稼いだ。
・アルコールをめぐって、窃盗や殺人を含む犯罪が、禁酒法施行前より増えた。

 結局、禁酒法が、飲酒問題を減らすのに無効なことが、誰の目にも明らかになり、1933年に廃止された。壮大な実験は失敗に終わり、禁酒法は、“悪法”という評価が定着した。しかし、この実験によって、飲酒問題の解決は、法律による規制や、宗教的、道徳的良心に訴えることでは不可能であることが明らかになった。そして、「ジン狂い」は、精神疾患だと診立てる方向に、医学者も依存症の当事者達も動くことになる。

 まず、1930年代後半、Jellineck(エール大学医学部 アルコホリズム調査研究プロジェクト)が、2000人のAAメンバーを調査して、現在の診断基準とほぼ同じ、特徴を描きだした。Jellineckは、1950年代になって、NCA(National Council Alcoholism)を設立し、疾患であることを、広く、社会に広報し始め、その結果、1954年、米国医学会が、アルコール依存症を正式に疾患だと認定した。これを受けて日本では、以前の「慢性酒精中毒」という疾患名が「アルコール依存症」に変わり、現在に至っている。

 なお、国際的な診断基準は2つあり、WHO(世界保健機構)が作成したICDでは、アルコール依存症であるが、米国精神医学会が作成しているDSMでは、2013年に発表されたDSM-5(第5版)では、アルコール依存症からアルコール使用障害に変わった。日本の行政の統計や生命保険会社に提出する診断書はICDを使っているため、筆者も、日常的には、アルコール依存症を使っている。研究発表では、アルコール使用障害が使われることもあり、当面は、混在する状態が続くと考えられる。